長い人間の歴史の中で、それぞれの時代によって価値観が変わってきたわけで、現代の我々から見たら、一夫多妻制を奇異に思ったりするのと同じように、昔の人から見たら、現代人がセックスを特別視している事を驚くのかもしれません。人間が日常食事をしたり排泄をしたり、或いは会話をしたり入浴したりするのと同列の、人間が日常普通に行う行為のうちの一つであって、特別扱いするものでは無いのがセックスなんじゃないでしょうか。
子供をあやしながらセックスをするなど、とんでもない!と思ったり、一体どんな神経してるんだって思ったり、怒らないまでもドキっとしてしまったりする人も非常に多いかと思います。
でも、ちょっとゆっくりと考えてみると、なんと自然でおおらかなんだろうという思いがします。
公衆の面前で犬がセックスを始めてしまって、人間に水をかけられたりなんかする事が有りますが、犬たちにとっては自然にやっている事で、それを人間が勝手に驚いて止めさせようと水をかけるわけですね。
セックスというものは、非常にプライベートなものであって、人に見せたりするものでは無いという考えが有るのを否定まではしないけれど、良く考えてみれば、お互いに知っているのに黙っているだけの事なんですよね。結婚したカップルに子供が出来れば、ああ、あの二人は少なくとも1回はセックスしたのだな、という事が解るわけですよね。子供が出来たカップルに「おめでとう」とか「かわいい子だね」とか言うことは有っても、この子を作った時はどんなセックスだったの?とか聞いたりしないわけですね。良く、奥さんがセックスが強いと男の子が生まれて、ダンナさんがセックスが強いと女の子ばかり生まれるなんて言いますけれど、ある家に女の子ばかり生まれているのを見て、きっとあそこのダンナはセックスが強いんだろうと内心では思うわけです。でもそれを口に出してまでは言わないわけですね。でも、お互い内心では解っている事を絶対口に出さないのも、ちょっとへんな事だとも言えると思います。
例えばこんな風景はどうでしょうか。
夫婦が居て、子供が一人います。親子三人同じベッドで寝ていて、夫婦がセックスするときには、子供に「パパとママはいつもこういうことをするんだよ。パパとママがこれをやっているときは邪魔しないようにしてね」とかなんとか言って子供にセックスを教え、見せる。あるとき夫婦がセックスしている所へ子供が来て、「パパとママがあれをやっているから、邪魔をしちゃいけないな」と納得して他の部屋へ行って一人で遊んでいる所に、隣のおばさんが尋ねて来て子供が「今、パパとママはセックスしてるよ」という。「あらそう、それじゃ邪魔しちゃいけないわね、また後で来るわ」と言って帰っていく。後でママが隣りのおばさんに「先程は尋ねて来て下さったのに応対出来ませんで、ごめんなさい」と言いに行く。「いいえいいえ、いいのよ、でも、新婚さんはアツアツでうらやましいわ」と言って笑う。
と、こんな感じだったらいいと思いません?
そして、その子供が成長して恋人が出来たらセックスをするでしょう。
セックスをしたら、親にも何のためらいもなく話をするでしょう。
親はセックスをした事自体を責めたりはしないでしょう。でも、まだ働いていないのだから、子供が出来ないようにセックスをしなさいという指導をするでしょう。そして、きっとその子供はセックスに対して余裕が有るだろうと思います。余裕が有るというのは、セックスは誰でもする事で、誰でもやって良い事なんだと思っているからこそ、やるときにはまだ育てられないのなら子供が出来ない様にやらなくてはいけないと言うことも余裕を持って受け入れられるということであり、やるなら病気にならないように気を付けながらやるという方法論を冷静に受け止める事が出来るということであり、やりたい人とはやるけれども、やりたくない人とはやらないのだという事も冷静に考えられるという事なんじゃないでしょうか。
セックスに対して余裕が有る人と無い人では、例えばユーモアの有る春画を見て、余裕の有る人ならば、見て笑って楽しんでからマスタベーションのオカズに使い、余裕の無い人はユーモアを理解する前にすぐマスタベーションを始めてしまうという違いが有る様に思います。
また、裸婦の絵画を見て、ドキっとしてしまって芸術鑑賞どころではなくなってしまうのと、裸体は見慣れているので、ドキっともせずに美しいなと思いながらその絵画を鑑賞する事が出来るという違いというのも有るでしょう。
昔だったら、乳児に水泳をさせるなんて事は考えられなかった事だけれど、今では乳児に水泳をさせたりするように、子供がセックスに対しておおらかに接する事が出来る様になったら、きっと素晴らしいんじゃないかな、なんて思います。
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